言葉の呪い・認知の歪み・存在しない社会常識

毎日何もしていない。正確に言えば何かはしている。朝11時ごろに起きてゲームをして、お昼を食べてぼーっとしていると夕飯の時間になり、夕飯を食べてまたゲームをしたり本を読んだりして寝ている。"生産的なこと"を何もしていない。

あまり親しくない女の子とデートをすることに慣れていなかった頃、「休みの日は何してるの?」という(いま考えたら本当にどうでもいい)質問に対して、何もしてないと返されて困惑した事を思い出した。「何もしてない訳ないだろ!」と思った。今なら分かる。要するに、話題にするほどでもない、取るに足らない事をしているという事だ。

仕事について忘れられたのは良かった。会社が少しでも良くなるよう身を粉にして努力してきたこと。社内政治に巻き込まれて左遷され怒りに打ち震えたこと。左遷先で危険な汚れ仕事をさせられ怯えたこと。左遷先から拾ってくれた恩人をまた社内政治から守れず失い悔しかったこと。ほんの半年以内に起きたことなのに、全ての感情が遠い昔のことのように思える。

当時、特に刺さって苦しかった言葉があった。「お前は全部他責にしている。環境から逃げている」と、最後の上司(恩人を社内政治で追い出した人間。僕は彼を上司と認めていないが)に言われた。悔しかった。運に恵まれた人間の論理だ。本当の地獄を見てない人間の発想だ。お前が僕の代わりに同じ目に遭ってみろよ、それでも同じこと言えるのかと思った。ただ、自分の思考の中にも「自分は逃げているのではないか」という不安が生じた。認識した瞬間、どんなに否定してもその言葉は消えなかった。言葉の呪いがかかった。

休職中、夢の中で何度もその上司と口論した。「自分はできる範囲で全力を尽くした。その上でこんなくだらない会社で働きたくないから辞めるんだ」というようなことを叫んでいた。彼にその場では言えなかったことだ。でも夢は続いた。たぶん、その答えでは自分自身でさえ納得させられなかったのだろう。

診療内科のカウンセリングに通い始めた。カウンセラーは、Tommy Febrary(例えは古いが)みたいな眼鏡が似合うお姉さんだった。最近、自分の年齢が、自分の頭の中にあるお姉さん像を超えてしまったことに対して動揺を隠せない。たぶん彼女は25~26歳で僕の中では「お姉さん」なのだが、僕よりも年下なのだ。。。

彼女に言葉の呪いの話をした。そしたら一言、「逃げちゃいけないんですか?」と言われた。「目の前に熊とかライオンがいたら逃げますよね」と。「逃げることも生存戦略の一つ」というとてもシンプルなアイディアで僕は救われた。そして、この生存戦略は僕個人が自分の状況に合わせて取るものなのだ。人によってある事象は羆かもしれないしリラックマかもしれない。人による。僕はいまの状況に耐えられないから逃げる、それだけだ。そのカウンセリング以来夢は見なくなった。

僕はずっと、自分に訪れた苦難かが「逃げてもいいレベルのものである」という他者からの承認を求めていた。一般的な社会常識に照らして、いまの状況が「この程度なら社会人として我慢すべきもの」か、「普通に考えて異常で逃げていいもの」か。前者なら甘えだ、忍耐力不足だ、と。しかし「この程度なら社会人として我慢すべき」というコンセンサスを得た社会常識は存在しない。僕は自分で作り出した「存在しない社会常識に沿った空想の社会人像」から逸脱することをずっと怖がっていた。

だが、決められた社会常識がないというのも実は辛い。「どの程度の辛い状況ならば離脱すべきか」という問いの答えは、自分の心の限界や、選択の結果起きる不都合と相談しなくてはいけない。誰も答えは教えてくれないし、責任も取ってくれないのだから。